新城事件
明治29年(1896年)12月、花蓮港守備隊新城監視哨の任に当たっていた結城亨少尉の率いる一個小隊とタロコ蕃および李阿隆(この地域に200名ほどいた台湾人の有力者)との衝突で結城亨少尉以下23名が殺された事件である。新城村は花蓮市方向からの台9線が台8線と交点する手前約1kmほどのところにあり、台8線を進めば車5、6分でタロコ渓谷入口(東西横貫公路の起点)に至る。事件の原因は軍規の乱れた日本兵による李阿隆の弟の妻(タイヤル族)に対する暴行、強姦がきっかけとされている。タイヤル族の厳しい生活習慣として「有夫姦は一般にこれを重罪」とし、報復手段は厳しく、相手を殺害するのは当然のこととされていた。この事件は後の第5代台湾総督佐久間左馬太による理蕃5ヵ年計画(明治43年ー大正3年)の導火線の一つになった事件とも言える。大正3年に簡単な記念碑が建造されたが理蕃5ヵ年計画による原住民討伐作戦が終了し世情が落ち着いた昭和12年(1937年)になって新城神社が創建された。昭和20年(1945年)、日本軍の台湾撤退後、神社の本殿は壊されたが鳥居、石燈籠、守護霊獣、手洗舎、石碑などは残された。昭和29年(1954年)スイスの宣教師がこの地に来られ、新城神社の脇にカトリックの教会を創建、この新城神社の一連の設備を保護するため鳥居に「天主教会」の文字を嵌め、また本殿の場所にはマリア像を設置するなどして今日に至っている。